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![]() 南北朝動乱期には南朝方の湯本城が築かれたが、落城しました。 戦国期には岩城氏の所領で、湯本は若松氏が治めていました。 当時岩城、佐竹、田村氏などの戦国領主が湯本に湯治に来ていたことが記録されています。 江戸時代初期から中期にかけて、鳥居・内藤氏の所領であったが、延享四年内藤氏の延岡転封後は小名浜代官領となり、明治維新まで続きました。浜街道が整備されると、 唯一の温泉宿場として栄え、年間約2万人前後の浴客で賑わいました。温泉は、地表に湧出しておりました。 しかし、明治期になると中央資本が常磐で大規模な石炭採掘を始め、 坑内に湧出する温泉を汲み上げ、温泉面の低下を来し、大正8年には湯脈が断たれ温泉町として機能を失いました。反面、出炭量は増大し、石炭景気で湯本町商店街は繁栄し、 それは昭和40年代まで続きました。しかし先人達の活躍により、温泉揚湯会社を設立し、毎分5トンの揚湯を確保しました。(揚湯にもかからわず、年々温泉面は上昇しております。) 昭和40年中頃から石炭の斜陽と共に閉山が続き、人口の流失などがありましたが、炭坑会社は温泉娯楽施設(現 スパリゾート ハワイアンズ)などを設立し企業転換を図ったため、 他の鉱山都市のような大きなダメージは受けませんでした。温泉源の確保と相まり、旧来からの温泉観光地として、 常磐線及び常磐自動車道唯一の温泉地として繁栄しております。 |
白雉 四年 | 653年 | 常陸国の多珂郡を多珂郡と石城郡に分割、石城郡は後に陸奥国に編入。 |
養老 二年 | 718年 | 石城國が建国、湯本温泉の存在が奈良朝廷にも知られるようになった。 |
延長 五年 | 927年 | 延喜式神名帳に、「陸奥國磐城群温泉神社」が選上された。 三箱御湯と呼ばれ、道後温泉、有馬温泉と共に、日本三古泉と称した。 |
長徳 三年 | 997年 | 拾遺和歌集に「あかずして わかるる人の 住む里は さはこのみゆる 山のあなたか」 詠み人知らず が載せられた。 |
永仁 年間 | 1290年頃 | 未木和歌集に「温泉の部・よとともに 歎かしきみを みちのくの さはこのみゆと いわせてし哉」が載せられた。 |
建武 三年 | 1336年 | 南朝方と北朝方が三箱湯本堀坂口で交戦した。 |
永正 年間 | 1510年頃 | 常陸の佐竹義舜と岩城盛隆が湯本で湯治する。 |
天正 十一年 | 1583年 | 佐竹義重が湯本に湯治にくる。 戦国時代、信濃御湯・名取御湯・三箱御湯を日本三大名湯と称した。 |
元和 八年 | 1622年 | 湯本温泉は、平藩・内藤家の領地になる。 |
延享 四年 | 1747年 | 湯本温泉が天領になる。浜街道唯一の温泉宿駅として発展。 |
慶応 四年 | 1866年 | 戊辰戦争で湯本村焼失。 |
明治 三五年 | 1902年 | 石炭産業の進出に伴って温泉源が低下し自噴しなくなる。 |
大正 二年 | 1913年 | 温泉を確保するため「湯本財産区」を設置。 |
大正 八年 | 1919年 | 源泉が枯渇し、ポンプ揚湯不能。 |
昭和 十年 | 1935年 | 湯本温泉復活のため、作之道温泉抗を掘ったが戦争のため中断。 |
昭和 十七年 | 1942年 | 炭鉱会社と湯本財産区で毎分五十立尺の送湯契約が成り、約三十年ぶりに温泉の利用が再開される。 |
昭和 五一年 | 1976年 | 炭坑閉山に伴い、新源泉から揚湯に成功。 |
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